逼迫する世の中でも周りと共鳴して、生き長らえたいですね

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今日は、ひとつ、ヘンリースタインウェイのお話しと共に、今の世界とピアノ、音楽の存在をわたしの言葉にしてお伝えいたしますね。暗黙の世界、病、戦争にも必ず終わりがあります。長い歴史の中で経験したことのない問題も、結局は、皆で少しずつ歩み寄り、または前向きな気持ちを持ち続けなければ、精神面で負けてしまいます。精神と体力は密接な関係があります。より健康に留意され、小さな自分でできる楽しみを見出して、乗り越えていきましょう。わたしは、自分の健康と音楽の技術を、惜しみなく放出して、日々生き抜いています。毎日が、ドラマで毎日が幸せと思わなければ、生きている価値がありません。何故なら、生きていたくて、亡くなる人もいるからです。

今日は、ピアノにちなんで、スタインウェイ創業者達の苦難と魂をお伝えし、皆さんへ勇気や元気を伝えたいです。

今も国民に愛され続けるピアノ、スタインウェイはどうやってこの世に生まれ、輝き続けているか、、、

それはそれは苦難を乗り越えてきた、創業者ヘンリースタインウェイさんとその家族の軌跡を辿ります。

1797年、ドイツ北西部の 寒村で森を守る林務官の息子として生まれました。幼 い頃にナポレオン戦争で父と兄たちが徴用され、 残された母や兄弟は食糧難で餓死、15歳のときに 落雷による火災ですべての家族を失います。孤児となったヘンリーは軍隊に入り、ワーテル ローの戦いに従軍。戦場ではラッパ手を務め、 楽器に接しているときが唯一のなぐさめでした。かろうじて生還したヘンリーはオルガン工場の 職人となり、もともと得意だった木工技術に磨き をかけます。やがて自前の修理工房を構え、仕事かたわら当時流行しつ

つあったフォルテピアノの魅力に憑りつかれ

、独自のピアノづくりに熱中したヘンリーは1836年、10年以上かけて念願のグランドピアノを完成させます。自宅のキッチンで誕生したピアノ第1号はキッチン・ピアノと呼ばれ、

のちにニューヨークのメトロポリタン美術館 ヘンリー・スタインウェイ に展示されます。1839年、グランドピアノとスクエアピアノを州 の展示会に出品して1等賞に輝く。結婚して家庭 をもうけたヘンリーはピアノづくりの基礎を息子 たちに学ばせ、響板に使う木材の選び方、鍵盤 の切り出し方、弦の張り方、ハンマーの作り方、 均一に音色を揃える方法など決して妥協を許さず 常に最高の仕上がりをめざした。  ヘンリーのピアノは高く評価されたものの、政情不安による物価の高騰で国民の生活は逼迫し、 やむをえず製造を中断するのです。アメリカに渡り、一家総 出で移住する。

一家はハンブルグからニューヨー クへ出航した。ヘンリーは53歳、妻は46歳の決して後戻りできない片道切符の旅立ちでした。

離散や住まいがなくなる、ゼロからのスタート、片道切符、この状況は、わたし自身に似ています。

スタインウェ イ一家は英語もろくに話せないままピアノ工場で 働きはじめた。息子たちもカールはチャールズ、 ハインリッヒ・ジュニアはヘンリー・ジュニア、 ウィルヘルムはウィリアムと改名した。  3年後の1853年、ヘンリーはスタインウェイ &サンズの商標で待望のピアノ製造会社を設立す る。当初はマンハッタンの小さなロフトでスター トしたものの、しだいに信用を高めて社員を雇う ようになった。  1855年、クリスタルパレスで開かれた博覧会に 3男のヘンリー・ジュニアの設計によるスクエアピアノを出展する。大きなコンサートホールでも 演奏できるように総鉄骨フレームに弦を交差させ て張った改良型スクエアピアノはゴールドメダル を獲得し、新聞で「素晴らしい音の力、低音部の 深みと豊かな音、中音部の柔らかさ、そして高音 部の輝かしいまでの純粋さ」と絶賛された。  1862年のロンドン万国博覧会では交差弦式の グランドピアノが金賞を受賞し、スタインウェイ の名声は全世界に広がった。ところが1865年、 チャールズとヘンリー・ジュニアが相次いで病死 するという予期せぬ不幸に見舞われる。  ドイツでピアノを製造していたテオドールは急遽渡米し、セオドアと改名して技術部門の責任者 となる。音響学を学んだセオドアは高名な物理学 者のヘルツホルムと親交を深めてピアノの音色を科学的に分析し、飛躍的に品質を高める数多くの 特許を取得した。  販売戦略は社交的な4男のウィリアムが担当し た。1864年、マンハッタンの14番街にスタイン ウェイのピアノ100台以上を陳列したショールー ムを開設。1866年にはショールームの隣に2000 人を収容するスタインウェイ・ホールを建設した。 観客は必ずショールームを通ってホールへ行くよ うに設計されました。

スタインウェイ・ホールは芸術と文化のシンボ ルとなり、1891年にカーネギー・ホールが誕生す るまでニューヨーク交響楽団の本拠地となった。

1871年、父のヘンリーが亡くなり、セオドアと ウィリアムが共同経営者として事業を受け継ぎ、1877年にロンドン支店、3年後にハンブルグ支店 と新工場を開設。4年後にはピアノの魔術師と崇 められたリストのピアノを製作するなど名実とも にトップブランドとして欧米の市場を席巻した。 スタインウェイの金属フレーム、交差弦、共鳴板 などはスタインウェイ・システムと呼ばれ、現代 ピアノの基本形として他のメーカーも追随した。  企画・宣伝面ではコンサート&アーティスト部 を新設し、ルビンシュタイン、パデレフスキー、 ラフマニノフ、ホロヴィッツらのスタープレイヤ ーによる演奏会を繰り広げる。スタインウェイを 愛用する彼らはスタインウェイ・アーティストと してクラシックからジャズ、ポップスの分野へと 広がった。

ピアノ・マンなどのヒット曲で知られ るビリー・ジョエルもそのひとりです。2つの世界大戦を乗りこえて隆盛を誇っていた。

スタインウェイも1960年代後期から陰りが見え はじめ、かわってヤマハやカワイに代表される 安価で安定した品質の日本製ピアノが急激に台頭 する。1972年、スタインウェイはCBSコロンビア グループに買収され、5代にわたる家族経営は 終焉を迎えた。  経営主体は代わってもスタインウェイの原点で あるクラフトマンシップは現在も引き継がれてい る。オートメーションによる流れ作業は採用せず 工程の8割を個々の職人が手がけるマイスター制 を導入。文書化したマニュアルも存在せず設計図 は金庫にしまわれたままだという。現場で技術を 極めた職人たちがそれぞれの個性を発揮しながら 比類なき響きといわれる 至高のサウンドを創っている。 

スタインウェイのクラフトマンシップとは孤独 な少年時代を過ごした創業者のヘンリーが家族と 共に最高のピアノづくりに打ち込んだ誇り高き魂とあります。

自分の技術、またはサポート、歩み寄りの気持ちの小さな粒が、いずれ蓄積され大きな力となったとき、自分では対処しきれないもの、自分では開けない扉も必ず有力者が、手を差し伸べてくれます。それは、偉い人でも身近な人でもない、みんなの気持ちが跳ね返ってきた時、太陽が月を照らすようなものです。

わたしは、最後まで、明るくピアノや三味線を通して、皆さんと接していきます。それだけしか今はできません。